• くりはら研究所だより第20号
  • 2008年7月16日(水曜日)発行

麦屋 弥生さん逝去 ご冥福をお祈りします

写真:資源調査をしている麦屋弥生さん

 栗原市の観光産業づくりの指導をいただいていた麦屋弥生さんが、2008年6月14日(土曜日)、駒の湯温泉に宿泊中「岩手・宮城内陸地震」で発生した土石流に巻き込まれ不慮の死を遂げられました。麦屋さんの早すぎる逝去を悼み、心から哀悼の意を表します。

 麦屋さんは2008年6月13日(金曜日)にくりはら田園鉄道の保存・活用を検討する委員会に出席、翌日の14日(土曜日)に資源調査をするため宿泊していた最中のことでした。
 麦屋さんには、2006年(平成18年)10月から栗原市の新しい観光産業づくり「くりはら田園観光都市創造事業」の指導を受けていました。

写真:事務室内にある麦屋 弥生さんの机

2008年(平成20年)3月までの調査研究をまとめた報告書を麦屋さんの監修で作成し、2008年度(平成20年度)からは資源調査を継続しながら、資源の生かし方や仕組みづくりを麦屋さんの指導で進める矢先の悲劇でした。
 麦屋さんが提言する観光は「地域の資源に光をあて、地域の人々が元気になる」こと。栗原市を愛してくれた麦屋さんの考え方をしっかりと心に刻み、市民の皆さんと共に、今後も新しい観光産業づくりを進めていきたいと考えています。

故 麦屋 弥生さんのプロフィール

故麦屋弥生さん追悼文

「麦屋さんの遺したもの」 早稲田大学教授 宮口 とし廸(みやぐち としみち)

写真:宮口とし廸教授と麦屋弥生さん



宮口とし廸教授と麦屋弥生さん
※2008年2月8日(金曜日)に東京で開催した「くりはら輝かせ隊交流会in東京」で撮影した写真

 

 

― 2月8日(金曜日)、東京での栗原交流会から11日(月曜日)の由布院まで、大変お世話になりました。たくさんのステキな場所(先生のお気に入りの場所)に同行させていただいて、本当に幸せでした。栗原市の高橋さんも、通常のツー大生の十倍も貴重な体験をして帰っていったと思います ―

 これは今年の2月18日(月曜日)に麦屋弥生さんからいただいたメールの最初の部分である。2月8日(金曜日)の夜に「ふるさと応援団くりはら輝かせ隊交流会in東京」が開催され、私も参加させていただいた。栗原の女性たちが土地の食材を運んでその場で調理した料理はすばらしく、在京の栗原出身者始め参加者はあらためてみちのくの懐の深さに思いを寄せ、麦屋さんのリードのもと、会は大いに盛り上がった。
 熊本県小国町の九州ツーリズム大学の講義のために、麦屋さんは栗原市の高橋幸代さんと翌朝熊本に飛び、私もその日のうちに小国で合流した。私のツー大の講義はその翌日由布院で組まれていたため、小国・由布院での語りとお酒の場に3日間、麦屋さんは高橋さんと共にずっと付き合ってくださった。麦屋さんが栗原を担う人の成長をどれだけ願っていたかを思うと、今でもこみ上げてくるものを禁じ得ない。

写真:資源調査で若柳地織の工場を観る麦屋弥生さん

 麦屋さんと初めてゆっくりお話した場所は、1999年の夏、北海道の鹿追町だった。当時の国土庁の地方振興アドバイザーとして、地元のファームイン研究会を中心に地域の観光を考えることが課題で、若井康彦さんと3人で出かけた。その後何箇所かにご一緒する機会があり、彼女の仕事の中でも声をかけていただいた。金沢に拠点を移されてからは富山・石川でお会いすることも増えた。
 もともと地方を訪れた時に、土地の人と夜遅くまで飲んで持論を納得してもらうのが常である私は、延々と飲みながら、可愛くさわやかで、かつズバリという指摘を行う麦屋さんから、本当に多くのことを学んだ。地域における私のアドバイスが少しでも進歩しているとすれば、それは麦屋さんのおかげである。
 まち歩きの中で地域のスグレモノに気づく麦屋さんの感性はすごいものであった。それは手仕事に対する彼女の敬意の発露であり、そしてその価値に気づくだけではなく、その価値を誰かに伝えたいという本能に裏打ちされたものであったと思う。よき教師は語り伝えるために学び、その価値を語り伝えられる人を育てたく思う。そして何よりもその人の成長が嬉しい。麦屋さんはそういう人であった。国交省の地域づくりインターン生たちも、麦屋さんから大きな感化を受けたに違いない。この間、くりはら研究所の面々もかなり成長してくれたと思う。

 告別式で初めてご主人と息子さんにお会いし、離れ離れの生活の中でも、いかにご家族が強く結ばれ、支え合っておられたかが瞬時に伝わってきた。家を空けることの多い私には、最も麦屋さんの偉大さを感じさせられた瞬間であった。

 一昨年の夏、過疎地域の表彰のための視察で鳴子温泉町を訪れた際、麦屋さんが鳴子の人たちと懇意にしていることを知り、それだけで鳴子は本物だと思った。その鳴子の縁で麦屋さんの栗原の仕事が始まり、晩秋の鳴子での私の講演にも、発足間もないくりはら研究所の面々を連れて駆けつけてくださった。その後昨年3月に栗原で麦屋さんの資源調査を垣間見せてもらってからは、河北新報のネット版で鳴子・栗原の情報を探すようになった。そこであの恐ろしい記事を読むようになるとは…。

 東北には、都市化と経済成長の陰に消えていった多くの手仕事のワザが、風格のある田園風景と共に残されている。その価値を現代版ツーリズムに組みなおそうとしたのが麦屋さんであった。麦屋さんは地元の人と共に歩き、多くの地域資源を見つけた。佐藤市長という理解者を得て1年半、作業がまさに軌道に乗ろうとしていた時の悲劇である。「この世には神も仏も・・」と思わざるを得ない。しかしこのようなときこそ、人と人が支えあってきた田舎の力をさらに磨き、なんとか復興に向けて、そして時間はかかろうとも、何としても麦屋さんの遺志を実現してもらいたい。

 冒頭に紹介したメールは、次の文章で締めくくられている。

― 栗原では、これまでの農村のやり方… 顔の見える範囲で
  農村の速度… ゆっくりとを肝に銘じて、事業を進めて行きたいと思います ―

写真:資源調査で伊豆野堰の土木遺構を観る麦屋弥生さん

 『くりはら研究所だより』には、帽子を深めにかぶった洒落た出で立ちの、調査中の麦屋さんの後姿の写真がいくつか載っており、その姿は、栗原の多くの人たちの胸に刻まれているはずである。また、麦屋さんは多くの人を栗原に案内し、私を含めて栗原に特別の思いを抱く多くの人を遺してくださった。人と人のつながりと支え合いこそが、地方の力の源泉と信ずる。
 市長始め市民そして職員の皆さん、麦屋さんはいつもあなた方のそばにいて力を貸してくれるはずです。希望を!

宮口 とし廸 氏のプロフィール

【略歴】
 早稲田大学教育・総合科学学術院教授、大学院教育学研究科長、文学博士。専門は社会地理学・地域論。
 東京大学理学部地理学科、同大学院博士課程において社会地理学を専攻。1975年(昭和50年)から早稲田大学教育学部に勤務、1985年(昭和60年)から教授になられ、現在に至る。
 富山県富山市に住み、地方と東京を見つめる生活を20年以上続けている。
 総務省過疎問題懇談会座長、農林水産省美の里づくりコンクール審査委員、国土交通省地域振興アドバイザー、富山県景観審議会会長、全国町村会の道州制と町村に関する研究会委員など。
【主な著書】
『新・地域を活かす 一地理学者の地域づくり論』原書房 ほか

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