東京都あきる野市

写真:あきる野市の中心地 栗原市は、友好姉妹都市として、東京都あきる野市と盟約を締結しています。
 両市では、学校活動を通じた文化・スポーツなどの相互交流や、各種団体の親善交流、特産物の相互販売や両市内企業への職員の相互訪問など、さまざまな交流を行います。
 なお、災害発生時に両市がお互いに助け合う「災害時相互応援協定」も取り交わしています。

【締結日】 2006年(平成18年)2月10日

 あきる野市は、東京都心から、約50キロメートル西に離れたところに位置し、秋川と平井川の二つの川を軸に、比較的緩やかな丘陵部と、奥多摩の山々に連なる山間部から形成されています。東に福生市、羽村市、西は檜原村、奥多摩町、南は八王子市、北は日の出町、青梅市に隣接しています。
 1995年(平成7年)9月に、「秋川市」と「五日市町」が合併して、「あきる野市」が誕生しました。
 古くから、この地域は秋留郷と呼ばれ、旧五日市町にある古い神社も阿伎留神社と呼ばれていました。ほかにも、阿伎留病院や秋留台地と呼ぶなど「あきる」の名称は、昔から親しまれてきました。そこで、21世紀に向けて、新市にふさわしい名称として、「地域一帯の呼び名で、歴史があること」「未来へ発展する期待がこめられていること」「ひらがなにすることにより、親しみやすいこと」「緑豊かな自然や中心部である秋留台地をイメージできること」などから、「あきる」の末尾に「野」を加え、多摩川を境に東の平野の「武蔵野」に対し、西の平野を『あきる野』とし、新市の名称も『あきる野市』と決定したそうです。

画像:あきる野市の市章あきる野市の市章

あきる野市のホームページ
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友好姉妹都市の盟約を締結するまでの経緯

 1985年(昭和60年)2月11日、志波姫町と五日市町は、130年ほど前の明治初期に活躍した「五日市憲法草案」起草者、千葉卓三郎をきずなとして、友好姉妹都市の提携を行いました。翌年からは、表敬訪問やスポーツ交流などが旧両町で盛んに行われました。
 1995年(平成7年)9月、五日市町は合併して「あきる野市」になり、志波姫町は1996年(平成8年)1月28日に、あきる野市と新たに友好姉妹都市盟約を締結しました。
 そして2005年(平成17年)4月1日、志波姫町を含む栗原郡10町村が合併して栗原市が誕生しました。友好関係を継承し新たな交流事業も行っていくため、栗原市とあきる野市は、2006年2月10日に友好姉妹都市の盟約を締結しました。

五日市憲法草案起草者 千葉卓三郎

画像:千葉卓三郎の肖像画

 千葉卓三郎は、江戸時代末期の1852年(嘉永5年)6月17日、現在の志波姫地区内の白幡村で生まれました。父の宅之丞は、仙台藩の下級武士で、卓三郎が誕生する直前に亡くなり、母親とも幼くして生き別れになりました。
卓三郎は、12歳のときに仙台藩校の養賢堂で蘭学を学んだ後、17歳で農兵隊の一員として戊辰戦争に参戦しました。しかし、白河口の抗戦で敗れ、「賊軍」の汚名を受けました。
以後、上京し、1880年(明治13年)4月下旬、東京の西多摩郡五日市に下宿し、五日市勧能学校に教師として勤務。このとき遭遇した全国的な自由民権運動の波の中で、武蔵多摩郡深沢村の山林地主、深沢名生・権八父子と出会い、深沢父子とともに五日市の学習結社「五日市学芸講談会」を結成。同年11月、東京で開かれた第2回国会期成同盟大会で、私擬憲法案の作成が決議されました。翌1881年(明治14年)には、現在の日本国憲法の源流となっている「主権在民」という考え方を基本にした「204カ条の五日市憲法草案」を起草して、国内はもとより国際的にも高い評価を得ました。
 1882年(明治15年)、卓三郎は結核にかかり、翌1883年(明治16年)11月13日、31歳の若さで亡くなりました。

千葉卓三郎の顕彰碑

写真:伊藤卓三郎の顕彰碑

 1979年(昭和54年)11月、千葉卓三郎の功績を顕彰するため、当時の志波姫町役場前、五日市役場前、卓三郎の墓所・仙台市北山資福寺の計3カ所に顕彰碑が建立されました。現在の建立場所は、志波姫町役場前は志波姫総合支所、五日市役場前は五日市中学校敷地内になっています。
 写真は、志波姫総合支所前に建立している顕彰碑。