受賞作品を、原文のまま掲載します。
 また、編集の都合上、すべて横書きにしています。
※ 敬称略

原文はこちら

それは生前の父の名前である
 三月生まれだから そう名付けられた

 祖父の名前は房次郎だった
 西上州の山奥から 前橋の町に出てきた
 ほかに行く場所もなかったのだ
 山村の次男坊は 生まれついての劣等差別組
 部屋住みは やがて新天地を求めねばならぬ

 リヤカーに地下足袋をすり減らしての
 汗もしたたる重労働の褒美だろうか
 結婚し世帯を構え 男三人の子宝に恵まれた
 初太郎、三男は由太郎、父は次男であった
 みんなに〈太郎〉の名を 平等に与えたのだ
 房次郎の屈辱から 子等を解放させたかった
 尋ねる機会を逸して 真実は想像の範囲だが

 祖父は還暦を出た頃
 中風に罹り 寝たきりの状態になった
 認知症も急速にすすんでいった
 白木蓮の咲く ある日の昼下がり
 小学一年生のわたしを寝床に手招きして
 そっと大便を差し出し 春太郎と優しく呼ぶ
 その突然の異様さに たじろいだ けれど
 一途な眼差しに 祖父の愛情の誠を感じた
 異臭が鼻をついたが 不潔さは覚えなかった

 祖父のことは あまりよく覚えていないが
 怒鳴って叱る姿よりも
 大便を食えと 気遣った涙目ばかりが
 しきりと 浮かんで 消えることがない
 その手の平の分厚かったこと
 春、春、太郎、春太郎、
 その濁声の うれしそうだったこと